広島・長崎・福島をカタカナで、
ヒロシマとかナガサキとかフクシマっていうと、
グローバルな印象、世界が一緒に抱える問題ってイメージが当てはまるけど、どうしても架空、リアリティの欠けたものに聞こえる。
何だかそこは本当にあるのか疑ってしまう。
日本が、歴史が、作った物語、
要するに、これだと個人が簡単に棚における問題になってしまわないですか。
これの何が嫌なのか、こっちに戻ってきてもまだ引っかかるから考えてみた。
それはそこから何も起こらないこと、この現実味のない言葉と共にあるさらりとした説明で知った気になってしまう感じ、ヒロシマが、フクシマが独り歩きしてどっか行っちゃいそうな心配。
保育所の頃から、原爆のうたを歌い(幼いながら当時はメロディも歌詞も全て怖かった)、小学校でも資料館行ったり(低学年の頃、入ってすぐの人形が怖くてしょうがなかった)、高校生になっても7月1日の正午に呉空襲の黙とうするのは当たり前(呉市は海軍の町、戦艦大和の町)。部活を中断して、8月6日の朝は黙祷する。
だから大学でこっち来て、TVもNHK以外式典放送しないし、
8時15分が余りにあっさり過ぎていく感じが衝撃だった。
今日てか昨日の11時2分も。
とにかく広島での18年間、映像、歌、劇、話、資料
あらゆるものを通して戦争や原爆のことが体に染みついているのです。広島の人がみんなそうでもないかもしれませんが、大半の人は納得できると思います。
本当に久しぶりに8月6日を広島で過ごして何だか落ち着きました。
帰省の目的の一つが、両方の祖父の米寿、喜寿のお祝いでした。
そこで自分の家族の歴史を目の当たりにする機会ばかりだったので、ここで書きたいこと以外も含め、考えさせられました。人生を語る上で、戦争の話にもなります。我慢強さとか、家族を思う気持ちとか本当に心を打たれます、それについてもいろいろ考えてて、でもそれまで書くとますます長くなるので省略します。
その中で、わたしの曾祖母が被爆によって晩年苦しんだということも知りました。それも、爆発後の何にも無くなった焼け野原状態の広島市に行っただけでの被爆。
おそらく直接話を聴ける世代はそろそろ終わってしまうでしょう。
たぶん直接の語り手がいなくなることにも不安がある。
やたら過去の話に聞こえるが、まだ66年、生の声を聴いてきた分
どうしても上手く片づけられない、片付いていない。
ではどうするのか、
広島県、戦後の平和な時代に生まれた子供という枠で見ると、
私は聴き手にならなければいけません。
県外、日本、世界という枠で見ると、私は語り手になるでしょう。
だから福島の問題も同じです。
私はこの問題に関しては聴き手にならなければいけません。
しかし、放射能など広島と通じる点に関しては、
語り手になる必要もあります。
これは阪神大震災にも言えるはずです。
それぞれの枠の中で、
自分は、語り手、聴き手のどちらなのかを考える。
それが分かったら、自分の意識を創り出す。
知ったかぶりも素直に聴き手になる、
1人1人が聴き手の意識を創り出していけば
少しは変わるんじゃないかな。
現実味が出てくると思う。
福島に関しては、早急に。
もうフクシマってはじまってるし。
私自身に関して、
まずはその辺の区別を自分で見極めて、
もっと意識を創出し、考えていかなければならないです。
発見のない、すごく当たり前のこといってると思いますが、
これが22年目の8月6日です。
長くなりましたが、どうしても自分の言葉にしておきたかったので。
きりがないのでここらで一区切り。
とりあえず広島出身であること、
それなりの義務があると改めて思っています。
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